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どさんこ田舎者、東京でいろいろつくる

北海道遠軽町出身、さのかずや26歳。大学院を経て、再び東京で会社員。無茶と繊細さと賢さとバランス感覚。

都会生まれと田舎生まれの記号耐性について

https://instagram.com/p/25z6PsqrTm/
パソコンばっかやってないで運動しろ、というメッセージ





連日のグループワークで疲労がヤバいから、特に工夫もせず、思っていることを思った通りに書く。




大学院の同期と話していて、思ったことがある。彼は東京生まれ東京育ちで、ヒップホップ育ちではないようだった。池袋から徒歩圏内に住んでいたという。札幌から車で5時間のど田舎に生まれたぼくからすれば本当に想像ができない世界だが、そういうものらしい。

彼は大学院でやりたいことがかなりはっきりと決まっている。これを使ってこれがやりたい、というところまで。一方、田舎生まれ田舎育ちのぼくは、パンクロック育ちであることとは関係なく、「これがやりたい」というところは決まっていない。なぜなら、ほとんどあらゆるものが魅力的に映るから。だと思っている。

これは今に限ったことではなく、大学時代、社会人時代もそうだった。目に映るものすべて魅力的で、すべてを学ぼうとして、すべてを楽しもうとして、身体を酷使していたし、パンクすることもしばしばあった。田舎に住んでいたころは、すべて楽しんでもまだ余裕があったのに。



消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

この間、「消費社会の神話と構造」という本を読んだ。40年ほど前に、フランス人社会学者のジャン・ボードリヤールによって書かれた本だ。ものすごく濃い内容の本だが、ものすごくざっくり言うと「消費社会はたくさんの記号で満ち溢れている」「世に生み出されているあらゆる流行は、消費したら価値を失う記号の差異にすぎない」ということが書かれている。

これを読んで、こないだ大垣から名古屋に向かう電車に乗っていて思ったことは、「田舎には記号なんてねえよ」ということだった。そこら中にある記号全部さらったって、すぐに見るものがなくなる。スペースを埋めるためのJRの自社中吊り広告がぶら下がっている程度だ。窓上ドア横に広告などめったにない。

一方、こないだまでの東京生活は、記号に埋め尽くされたものだった。就職のために大阪から上京した頃、「東京は広告が多くて楽しい」と思っていたことをはっきりと覚えている。俗に言う「田舎者の感覚」である。生まれてからずっとこんな記号の海の中で暮らす感覚なんて、想像もできない。



そこで、先日の大学院の友人との会話を思い出して考えたことは、田舎生まれは記号に対する耐性が著しく低く、都会生まれは記号に対する耐性が著しく高いのではないか、ということである。社会学の知識が全くないので当然のことかもしれないが、これは一般的に言えることなのだろうか、言えるかもしれない、と思った。

一般的に世の中で活躍する人は、ある一つのことに対してとても造詣が深く、特定の分野に突出した能力を発揮させていることが多い。俗に言う「マルチタレント」というのは、世間で活躍している(と言われている)人においては稀である。そして特定の分野に突出するためには、特定の分野にリソースを注入する必要がある。他のことが気になっても、特定のことをやり続ける力が必要である。

しかし田舎の場合、地域に貢献しているのは「なんでもできる人」である場合が多い。人口が少なければ一人で複数の役割をこなす必要があり、また突出した能力を持つ人がいる可能性も少ないことを考えれば、ごく当然ではある。この場合、様々なことに興味を持ち、多様な能力を身につけている方が活躍できる場合が多い。他人に理解できないことを突き詰めていると、逆に変な人だと思われて白い目を向けられることも少なくない。



ただ、都会においても、私が経験してきた広告の分野の人々や、私の知る経営者たちにおいては、マルチタレントであることが多い。様々なことを知っている人が、面白い発想やイノベーションを起こす可能性が高いのは想像がつくし、多くの立場のことを理解できることが多い。

とはいえ、マルチタレントになるとしても、そのいくつかのタレントを磨かなくては存在の価値は出ない。「マルチタレント」と「器用貧乏」の境界線は実に曖昧である。なんでもできるほど、なにもできない可能性も高まる。そしてそういう人が活躍するのは、晩年になってからのことが多い。ように見受けられる。



ということで、もっと都会人になって、他のことを無視してでも何か武器を得なくては、しかしどの武器にしよう、という迷いのポエムでした。もう身体がもたんぞ。早く決めなさい。







Blur / Girls & Boys




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