さのかずやブログ

北海道遠軽町からやって参りました、さのかずやと申します

「世界制作の方法」を読んで感じた、実際に世界を制作する方法

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学校の課題

「世界制作の方法」という本を読んだ。ネルソン・グッドマン(1906-1998)というハーバードの哲学の名誉教授の方の書いている本。
IAMASの課題で、その書評を書け、というものがあり、書いた。書いているうちにだんだん気合入ってきて、5,000字くらい書いたので、とりあえずどこかに残しておきたいと思い、ここに置いておきます。
哲学書なので流石にまあまあ難しいけど、控えめに言って最高に面白い本だったので、哲学に興味ある人、ものづくりにおいて精神性を突き詰めたい人はまず読んでおいた方がいい本だと思われる。

自分のこれまでの経験と照らして感じるところがいろいろとあり、それぞれいくつかまとめた。下記のような見出しです。なんか感じるところがあればコメントとか残していっておくれやす。

  • 本の概要
  • 広告と消費社会と世界制作
  • ウケるDJ、VJと世界制作
  • インターネットでのキャラ使いと世界制作
  • IAMASでの研究と世界制作

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概要

 著者は冒頭、世界の多数性を強調した哲学者エルンスト・カッシーラー(1874-1945)の言説に則っていることを述べ、「われわれは唯一の現実世界に代わりうる多数の可能世界についてではなく、多数の現実世界について語っているのである。」と述べている。また、世界の何かについて説明するとき、何らかの方法で記述しなくてはならない、つまり我々は「記述する方法に縛られている」ことを挙げ、世界は世界それ自体から成るのではなく、世界を記述する方法から成るのだ、と述べている。筆者はこの記述の方法を「ヴァージョン」と述べ、著者が存在しないと述べている、唯一の絶対的な「世界」なるもの(the world)は、数多くの異なったヴァージョンからなり、それぞれのヴァージョンが正しく、対象をなし、唯一のものへと還元されるわけではない多くのヴァージョン=世界(worlds)が存在する、と述べている。そして我々はそのヴァージョンを作ることによって世界をつくる(世界制作:World making)と述べている。


広告と消費社会と世界制作

 第4章で述べられている「ある対象がさまざまなおりにさまざまな事物を象徴するかと思えば、また別のおりには何ひとつ象徴しないということがある」という言説、また第7章で述べられている「言明の真理と、記述、代表、例示、表出の正しさ(具体的には、デザイン、素描、言いまわし、リズムの正しさ)は、まずもって適合(フィット)の問題である」という言説が非常に印象的であった。
 大量消費時代におけるモノの価値は記号にあり、その時代における消費活動とはモノでなく記号の消費活動である、その社会を「消費社会」と呼ぶ、とジャン・ボードリヤールは著書「消費社会の神話と構造」内で述べている。例えば衣服におけるトレンドはそれ自体「正しいヴァージョン」であり、その特徴(例えば流行のアイテム、色、絵柄、着こなしなど)が「流行」の記号となり、記号をまとうことで流行に乗ることができる。「流行に乗ることはカッコいいことである」とメディアおよび広告会社が流布しているため、生活者は記号を求めて商品を購入する。しかし流行が別の記号によって塗り替えられると、もとの記号は「過去」を表す記号となり、現在の「流行」を示すものではなくなる。この時点でヴァージョンは正しさを持ちながら、現在の流行には「適合」しなくなる。このようにグッドマンの世界制作についての言説と消費社会は密接に結びついていると感じた。
 個人的には流行のような短期的な正しさを量産するものではなく、長期的な正しさを持つもの(ヴァージョン)をつくりたいと思っているが、短期的な正しさのほうが分かりやすく、支持を得やすい。しかし短期的な正しさは同時に危険なものでもあると感じている。私が個人的に関連性を感じたいくつかの例とともに、グッドマンが述べている世界制作とその世界の正しさについての言説と、我々の生活との関わりについて考えてみたい。


ウケるDJ、VJと世界制作

 私は10年ほど前からバンドのライブを多く見るようになり、3年ほど前からDJイベントに関わるようになった。一般的に、DJよりもアーティスト、トラックメイカーの方が支持を集めやすい。楽曲によってヴァージョンを表現しているため、リスナーにとって「正しさ」を判断しやすいからであると考えられる。DJであっても、主催しているイベントが有名な人や、ロックフェスに出演しているような人、人気のアーティストの支持を集めている人や、パフォーマンスに特色がある人は「正しさ」が判断されやすいためか比較的多く支持を集めている。また特に名古屋以下の街のようなローカルのDJに関しては「支持者=友達=客が多い人」というのも「正しさ」を判断されている証拠だと見ることができるだろう。
 またDJのパフォーマンスにおいて「媚び」が問題となることがある。「客に媚びるDJ」という言葉がある。流行りの曲、お客さんが盛り上がる定番の曲を安直に流す人のことを指すが、単にDJが好きな曲だけを流して客が盛り上がらないDJをしてもイベントの意味はないので、この判断は非常に難しい部分ではある。それゆえ、「みんなが楽しめるDJイベント」と「音楽好きが認めるDJイベント」というのはなかなか両立しにくいと思われるが、その中でも多く支持を集めるDJイベントというのは絶妙にバランスを取っていて本当にすごいと感じている。これを両立しようと思うと、多くの場合内輪にならざるを得ないが、それもそれで必要なのだろうと思う。
 また上で述べたように、選曲だけでなく、曲の繋ぎの上手さやイベント全体の流れの中でのテンションなどを含め、DJとはひたすらに、観客にDJが展開する世界の正しさを問い続けるものであると考える。この辺りは広告にも近い部分があるが、様々な正しさの尺度を持つ観客に対し、どの程度の範囲をもって、どの程度の深さをもって正しさを問うのか、というスキルが非常に試されるものであると感じている。VJはさらに、DJの音楽、DJの世界とどれだけ共鳴できるかという部分が試されるため、それぞれの難しさがある。しかしうまくハマったときの楽しさは何にも代えがたいものであり、曲を流して世界を問う、あるいはイベントに参加することで世界を問うことで初めて、お互いの世界の正しさが認められる可能性が生まれ、そこでまた新たな世界がつくられていくのだと思う。


インターネットでのキャラ使いと世界制作

 Twitterを始めて6,7年が経つ。当初に比べるとTwitterの利用状況は大きく変化してきた。というのも、変わることのないものとして、誰かにとって「正しい」と見做されなくては関わりが生まれない(フォローしない/されない)という基準があるが、最近はあまりにユーザーが増えているため、この接点が新たに生まれにくくなっていると感じている。いや、実際にはたくさんの接点が生まれているのかもしれないが、そのせいで「正しさ」の基準を超えるハードルがどんどん上がっているように思う。
 そう考えると、その高いハードルを超えて、誰かにとって「正しい」存在となるためには、何らかの「信念や指針」を、それぞれのメディアフォーマットに合わせて分かりやすく主張する必要があると考える。そのためには、ある1つの「ヴァージョン」を強く主張するのがよいのだろう。最近の顕著な例としては、イケダハヤト氏のブログタイトルである「まだ東京で消耗してるの?」などが挙げられる。基本的に最近のWebでは極端な行動や主張が支持を受けやすい傾向にある。数年前にはアルバイトのスタッフが過激な行動を起こしていることがWebで話題になったが、Vineでは、6秒に圧縮した暴力的で刺激の強い動画が多くシェアされる傾向にあり、facebook個人ページにもその傾向は現れつつある。Showryという韓国人と思われる女の子は、胸の谷間を露出させながら音楽に合わせて身体を揺らし、口にケチャップを含んでパスタに向かって吐き出したり、虫に牛乳をかけて口からこぼしながら食べたりなどの過激な動画を多くアップし、2016年1月14日時点で117万いいね!を獲得している。(もともとYouTuberであったようだ)

Showry - 쇼리:
https://www.facebook.com/sshowry/
www.youtube.com

 しかしテレビなどの従来のメディアにおいても、日本における「イジり」などに代表されるように、暴力的な表現が支持を受けやすいことは知られてきた。そのためこの傾向は最近に始まったことではないが、大きな違いは規制機能にあると思われる。テレビはスポンサーや視聴者などによる規制機能が働いていて、Webでも「炎上」のような相互監視による規制機能が働くことがあるが、個人が好きでアップしているような、営利を目的としない自己顕示欲を満たすためのものには規制機能はほとんど機能しない。そのため過激さは増す一方であり、(炎上しない=人に迷惑をかけない範囲で)より過激にしなくては届かない状況がさらに続くだろう。
 グッドマンの言うとおり、唯一のヴァージョンに還元するとすれば、他のヴァージョンを捨てなくてはならない。個人的にはこれまで様々なものに興味を持ってきたので、何か1つの極端な主張を行うということはしてこなかった。しかしそれでは新たなつながりはなかなか生まれなかった。グッドマンは「あらゆる正しい世界を歓迎する態度からは、何一つ新しい世界はつくられない」と述べており、私自身もどこかである程度割り切る必要性も感じている。一方で、ある1つのヴァージョンを主張することは、分かりやすくもあり、危険なことではないかと私は考える。1つのヴァージョンの主張は、それ以外のヴァージョンの排斥でもあるので、続けていけばどこかでなにかと対立することは避けられない。その結果としての摩擦、軋轢が、いま世界を覆っている多くの問題の元凶になっていることは間違いない。しかし新たなヴァージョンを作り主張しないことには世界はつくられていかないので、私自身この間でバランスをとって生きていくこと、また世界のより多くの人が、安易にヴァージョンの主張を行うのでなく、この間のバランスをとるために考えていくこと、それらのために何ができるのかは強く意識して考えていきたい。


IAMASでの研究と世界制作

 グッドマンはヴァージョンの正しさについて、第1章で「ヴァージョンは頑なに固められた信念やその指針をなにひとつ損うことがない場合に、真であるとみなされる」 と述べている。その「信念」については「論理法則についての長命な思念、近ごろおこなった観察についての短命な思念、様々な程度の鞏固さが浸み込んだ他の確信や偏見」、「指針」については「代替しうるいくつかの座標軸、重みづけ、派生のための基礎」と述べている。私はこれを読んで驚いた。主張が正しいかどうかは、その主張の「信念や指針」の固さによって決まる、という解釈ができるものであったからである。
 そう考えると、IAMASでの研究において最も必要なものは、「信念や指針」であるのだろうと感じた。IAMASの研究は、誰がなにを行ってもそれ自体が世界を記述する「ヴァージョン」の1つであり、その絶対的な「正しさ」(絶対的なものなどないとグッドマンは述べているが、相対的に認められるものとは別の「正しさ」という意味で)は、ヴァージョンを記述する本人がそれを信じることができ、揺るぎなく主張できるかどうかによってのみ決まるのだろうと感じた。もちろんそのためには、深いリサーチや多くの試行錯誤が必要であることは言うまでもないが、それらは主張を更に鞏固にしていくための「信念や指針」を得るための作業なのだろうと感じた。
 ただ一方で、第6章において、無数のヴァージョンを認めることは、ヴァージョンならなんでもいいとか、真理と虚偽は見分けがつかないとか、記号を寄せ集めてヴァージョンを作成すればよい、ということではなく、「私が許容するのは多数の世界は、真または正しいヴァージョンによって制作され、それに符合する現実世界に他ならない」と述べている。これは、なんでも主張さえすれば認められるということではなく、「信念や指針」によって真である、または正しいヴァージョンであるとみなされるものだけが、認められる対象となりうる、という解釈ができるだろう。最新の技術やエンタメを真似ていわゆる「それっぽい」ものが作れたり、インスタでイケてる人やモノやイベントの写真を上げたりして記号をまとうことで「それっぽく」見えたととしても、「信念や指針」がなければ「正しいヴァージョン」ではなく、認められる対象にはならない、ということであろう。この点は履き違えないように意識していきたい。
 個人的には、世界的に認められている哲学者が、「信念や指針」というようなある種の精神論とも取れる主張を行い、それが強く支持されていることに強い驚きを感じ、同時に「やっぱりそういうものなのか」という納得も得ることができた。今の時期にこれを読んでおいてよかったと思う。「信念や指針」を強く意識して、これから1年の研究を進めていきたい。

 この本は「世界制作の方法」としながら、実際には「世界制作」という行為の解釈のみであり、その方法については示されていない。その「方法」は私たち自身が「頑なに固められた信念やその指針」を以って、押し寄せる批判や非難に負けず、独自のものを確立していかなくてはならない、ということであろう。



難しいこと考えたい人、自分の主張を貫きたい人は読んでおいたほうがよいと思う1冊


今日の1曲

♪3 Step Ahead / Drop it

3 Steps Ahead - Drop It (original mix)

Apple Musicでジャンル聴きしてる。プレイリスト機能をやっと使いこなし始めた。Apple Musicさまさま。


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