水辺にて
「全てを失った経験はあるかい?」
ジョンは大きく息を吐くと、かすかに笑みを浮かべながら、静かにそう呟いた。
霞んだ夕暮れのライン川沿いは、仕事終わりにピクニックやスポーツを楽しむ人々が思い思いの時間を過ごしている。雨が降り出しそうな気配はあるが、まだ降り始めてはいない。
「『全てを失った経験』かあ……。それってどんな経験?」
「自分が思いを注いできたものが、自分の思った形にならなかったり、自分の信じてきたこと全てが否定されるような、胸が押しつぶされるような、じわじわと自分の身体がむしり取られていくような、そんな経験さ」
ジョンは淡々とそう言った。
「大げさだなあ、ちょっとしたことならあるけど……」
「でもまあ、そういうことがあったんだ」
川の流れは静かで、見渡す限り飛沫も立たず、滔々と流れ続けている。
ぼくは掛ける言葉を探して、ジョンに言った。
「それはそれで、いい経験だったんじゃないの?」
「そうかもしれないね。でも実際に、全てを失った後にはなにが残ると思う?」
特に嫌味もなく言うあたり、本人は特に引きずってもいないようである。ぼくは少し考えて言った。
「いい経験は残るだろうね、なんていうか、きっと人にはなかなか経験できないような、他の人にはない経験をしたんだろうと思うよ」
口元に笑みを浮かべながら聞いていたジョンは、そのままさらりと言った。
「いや、なにも残らないんだ」
「何も?」
「そう、何も。そこにはただ、時間が過ぎたという厳然とした事実だけがある。『その分、他人には得られない経験を……』なんてことを言う人もいるけど、それは単なる慰めでしかない。そこに一握りのお金が残ればまだいいほうで、大抵は人生の大事な時間を使って、その最後に何もなくなるだけなんだ」
ジョンの言葉には悲観的な感情はなく、ただ本人の中を通り過ぎたものを語っているような、そういう印象の語り口だった。
「全てを失うとか、何もなくなるというのが、どういうことだかよくわからないけど」
ぼくはジョンの問いに対する答えを見つけられず、苦笑いとともにそう答えた。
「まあ、実際には全て失うということはないんだ」
川の流れを見つめていたジョンは、静かにかぶりを振ってそう言った。曇った夕日が、穏やかな水面に反射しているのが見える。
「自分が大事にしてきたもの、なんとかして築いてきたもの、別にそうでもないけど人からもらったもの、なんとなくそこにあったもの。君にもきっといろいろなものがあると思うんだけど、それらを全て手放したときに、手元に残るのは、本当に大事なものだけなんだ」
「本当に大事なもの、ねえ」
「そう。それはモノだけじゃなく、経験もそうだ。人間関係もそうだ。その先の人生において必要のない経験はなかったことになるし、あったとしても役には立たない。人間関係も、自然と疎遠になってしまったりするし、こちらが望んでも続かなかったりする。それでも残る経験、そして人間関係が、本当に大事なものだ」
淡々と、でも気持ちを込めて語るジョンは、なぜか少し嬉しそうにも見えた。
「それって、取捨選択をしっかりしていこうって話?」
「いや、そういうことでもないんだ。全てを失ったとき初めて、”最初から所有していなくてもよかった”ことに気がつくんだ。すべてのものは存在しているだけで価値がある。所有しないことを決めたとき、初めてそれに気がつける。失う経験をすることの価値は、その1点にだけあるのかもしれないね」
ぼくは首をかしげながら言った。
「なんだか難しい話だなあ。でもそこまでして、全てを失うような経験をしてまで、君が得ようとしていたもの、求めていたものは何だったんだい?」
静かに流れる川の音が聞こえる。川下から静かに吹く風に、ジョンの髪が揺れた。ジョンはじっくり考えて呟いた。
「いろいろ自分なりに理由をつくってみたりはしたけれど、ただ単純に、自分の居場所をつくりたかっただけなのかもしれないね。本当に自分にとって意味があると思える、そんな居場所」
言葉にすることで、本人にも腑に落ちるものがあったようだった。ぼくは慰めではなく、本心でジョンに言った。
「でも居場所をつくることは、まだこれからできることもあるんじゃないかな」
「うん、まだできることはあるんじゃないかなと思ってるんだ。でもそれはきっと、これまでと全然違うやり方で。自分ひとりではなく……」
<時間です ヘッドセットを外してください>
「あ、ごめん、じゃあぼくは行くね」
「うん、ありがとう。最後にひとつだけ、覚えておいてほしいことがある」
ジョンはぼくの目を見て言った。
「きっと君もこれから困難にぶつかることもあるだろうと思う。でも、『人を愛すること』と『利害関係を合わせること』を履き違えてはいけないよ」
画面には<体験が終了しました>の文字が写り、ホームの空間に移動した。
私はメニューから「退席」のボタンを押し、ヘッドセットを外す。静かにヘッドセットを薄暗い部屋の机に置き、部屋を出た。
机の上に置かれたヘッドセットの中では、日が沈み、雨が降り始めた薄暮のライン川沿いで、1人の男が静かに歩みを始めていた。
四月の雨なら
寒くはないよね
今ならまだ追いつけるはずさ
ねえきっと
別れの朝には
君に手を振るよ
それまでこのままいさせて