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どさんこ田舎者、岐阜でものづくり修行中

北海道遠軽町出身、さのかずや25歳。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)にいます。無茶と繊細さと賢さとバランス感覚。

【読書】地方にこもる若者たち / 阿部真大

inaka book

三連休夜遊びしすぎたら、夜眠れなくてつらかった。



ずっと気になっていた本を読んだ。

地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)

まだ30代の若い経済学者、阿部真大さん。
気になったところがいくつか。

  • 「イオンモール」という遊びのパッケージ
  • Web上に発生する、シブヤ的・ハラジュク的若者コミュニティ
  • 「社会の懐」「大人の安定性」の消失と、「植民地」化された「地元」原風景





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「イオンモール」という遊びのパッケージ

 彼らは3人とも遠く離れたイオンモールで余暇を過ごしている。彼らにとって、それは、楽しむ場所のない家のまわりを離れ、1日かけてドライブを楽しみ、ショッピングを楽しみ、映画を楽しみ、食事を楽しむことのできる、極めてよくできたパッケージであり、まさしく「遠足」と呼ぶにふさわしい余暇の過ごし方なのである。

 『遠足型消費の時代ーーなぜ妻はコストコに行きたがるのか?』にある「遠足型消費」は、バブル時代の浮ついた「ギラギラ消費」と対比的なものである。




▶イオンモールは田舎における遊びのパッケージ。とてもしっくりきた。後述するが、ぼくの子ども時代の遊びは、家の車で1時間かけて隣の市に行くことだった。

▶「行けば楽しめる」イオンモールというのは「つけてれば楽しめる」テレビに似ている。「行く」というアクションに労力が伴いはするが、基本的に受動的な遊び。

▶商店街に人を戻す場合、これに代わる何かが必要。たとえば純粋な「コミュニティ」。「話したい人がいる」というのは相当強い動機になりうる。
とはいえ、ぼくの地元の場合は、「駐車場がない」という理由で商店街より大型スーパーに流れてしまう。そうすると商店街もスーパーで事足りるお店はなくなってしまう。商店街の人はみんな困ってしまうし、商店街としてのお店がなくなることで街としての活気も失われる。「街としての活気」はスーパーによって取り戻すことはおそらくできない。
そもそも商店街に活気を取り戻す必要があるのか?というのは、その地域の人の判断になるだろう。その商店街にとても活動的な人がいたり、本当にそれ以外選択肢がないような状況になれば、不可能ではないだろうと思う。上から目線とかではなく、本当にその場の意志の判断でしかないし、ヨソモノが勝手に救うおせっかいをしてもいい方向に向かわないと感じている。



Web上に発生する、シブヤ的・ハラジュク的若者コミュニティ

 もしシブヤやハラジュクに代わるものが地方に生まれるとしたら、それはイオン的なものではなく、ネット空間においてであろう。6さんは(略)「最近はネットでいろいろできるので(都会に行きたいとは)そこまで強く思わない」と答えている。6さんの発言からは、モータライゼーションと同様のインパクトを地方に与えたもうひとつの大きな変化であるネット環境の充実をうかがい知ることができる。


▶個人的に、これらはすでにWeb上に発生していると思っている。
例えば「インターネットレーベル」というものがある。
ネットレーベル - Wikipedia
iTunes総合1位を獲るようなインターネットレーベルもある。iTunesランキングがマスだとするのであれば、インターネットレーベル発のマスに乗るアーティストが発生しつつある。
本文が指す「シブヤ」「ハラジュク」を「アーティスト予備軍が集う、若者文化の集積地」ととるのであれば、これは間違いなく既にWeb上に存在している。


▶また、「WEAR」というアプリがある。
http://wear.jp/
このようなファッション誌と店頭購入の中間概念の登場により、「街を歩くおしゃれな女の子を見ながら、その子が買ってる服を買う」という行為がWeb上で可能になっている。「自分も『街を歩くおしゃれな女の子』になれる」という点で、「読者モデル」概念よりもう一段、生活者に近い所まで降りてきている。
このように、「シブヤ」「ハラジュク」を「手の届く『理想の自分』を見つけ、購入する場所」と捉えるのであれば、これもすでにWeb上に存在している。


▶多分「シブヤ」「ハラジュク」概念は他にも捉えようがあるが、そのどれもがすでにWeb上に発生していると考えている。
リアルの渋谷にあるIT企業の影響が高そう。IT企業が渋谷に拠点を置く理由がよくわかる。



「社会の懐」「大人の安定性」の消失と、「植民地」化された「地元」原風景

・(商店街の消滅による、地域社会における人間関係の消失は)地域社会の濃密な人間関係がもっていた「社会の懐」をも消失させてしまった。そしてそれは、(現時点での生活満足度にはあまり影響しないが)彼らの感じる将来に対する不透明感として現れている。それがもたらすのは、人間関係について今は困らないがいつか困るかもしれないという不安感である。
・ただ、それ(地域活動への参加)を必要とするような状況に置かれれば、積極的に地域での人間関係を構築したいという気持ちはもっている。一部ではあるが、こういった声が若者のなかから発せられていることは注目すべきである。

 商店街が衰退しシャッター街になっていく風景は、地方の若者たちにとって、それまで盤石に思えていた「地域に残って生活し続ける」という将来に対する予期を揺さぶるものだっただろう。つまり「嫌でもここに残っていれば親世代と同じように安定した仕事にはありつける」という前提自体が崩れ去ったのである。しかしそれ以上に、地域社会の「顔」であった商店主たちが市場経済のなかでプライドを傷つけられ、惨めに散っていくさまは、強いからこそ反発しがいのあった彼らにとっての「大人の世界」の強固な安定性を激しく揺さぶるものであった。

▶︎田舎に住む若者たちが漠然と感じる不安感について「『社会の懐』の消失」という言葉でしっくりきた。「社会の懐」が消え、大人たちも頼れない時代に、大人たちよりいくぶん劣化した教育(ゆとり教育)を受けてきたのだから、未来に希望を抱けというほうが無理がある。
かといって『社会の懐』さえあれば地元に帰るのか、といえばそうでもない気がしているのは、きっと田舎においては、自分たちを押さえつける大人さえも太刀打ち出来ない問題が重なりすぎていて、その中でも大人たちを越える新しいことは、制度の面でも環境の面でもなにもできない、手も足も出ない閉塞感しかないからなのだろう。
▶︎これに対する解決策はあるのだろうか。逆に一度都会に出てしまった人のような、田舎の大人の固定観念に捕らわれない人にしか解決できない問題であるように感じる。


 若者の「地元志向」が強まっていると言うとき、彼らの思い描く「地元」の姿は、旧来の「地元」の姿とまったく違うものになっていることに注意しなくてはならない。彼らがノスタルジーを感じる「地元」とは、モータライゼーション以降の「ファスト風土」、ショッピングモールやマクドナルドの風景なのである(そこは、自分たちの文化を脅かす「大人」がいない、若者たちのパラダイスである)。そして、そんな郊外の姿に若者たちはノスタルジックな気持ちすら抱きはじめている。「地元志向」の問題点について考えるとき、われわれはまず、この前提からはじめなくてはならない。

現代日本における田舎とは、昔とは違い、モータライゼーションの進行した郊外=「ファスト風土」の姿だから(略)彼らが愛してやまないのは、昔ながらの田舎ではなく、ショッピングモールやコンビニ、ファミレスが立ち並び、マイホームとそれらの間を自由に車で行き来することのできる快適な消費空間である。つまり、彼らは地元は好きだが、田舎が好きなわけではない。

ぼくは逆に、これが大人たちにとっては「原風景」でない、ということに驚きを感じてしまった。
「若者」視点のぼくから見ると、地元の思い出といえば完全に、車で1時間かかる隣町に車で出かけていったことである。父親のタバコくさい車の助手席で、ジュディマリを聴きながらひたすら北海道の田舎の風景を眺め、街に入るとロードサイドの大型店舗をいくつも通り過ぎ、3階建てのポスフール(今はイオン)で買い物をして、車で移動して、大きな駐車場の周りを服屋さんや本屋さんが囲むモールに行って、親が買い物をしてる間にブックオフで立ち読みをして、車で移動して、大きい本屋さんで面白そうな本を何冊か買ってもらい、帰りにミスドに寄ってドーナツいっぱい買って帰る、という思い出。この頃のぼくにはこれが世界の全てであり、きっと両親にとってもそうだっただろう。それが都会に来て、ぼくのなかの「当たり前」がいろいろ崩れてしまったのであるが。
▶︎でも大部分の田舎に住む人々にとって、きっと普通に車を運転できる20代〜50代くらいまでは誰もが、こういう休日がスタンダードであるし、その中で育った子どもたちにとってこれが「原風景」であることは言うまでもない。一部の例外を除いて、圧倒的に東京資本である。この背景には、東京資本に駆逐された地方の商店街の大人たちの無数の屍がある。かつては大人たちが苦い思いをしていたのだろうが、地方が東京の「植民地」であることに、ぼくら若者はなんの疑問も抱いていない。こうなると状況を覆すのは難しく、非常に抽象的な表現になってしまうが、うまく各地の生活者のインサイトをつかんで、思いっきり状況をひっくり返せるような東京資本に負けない価値を作り出すしかないと思っている。


ほか気になったポイント

 (ミスチルの歌詞の「自分らしくいたければ、自分の身のまわりに感謝することからはじめよ」というメッセージについて)このメッセージは、ほぼすべての若者をもれなく救済するという意味で、極めて強力であった。(B’zの「自らのアイデンティティの担保を『努力』に求める」メッセージと対比して)関係性によって自分のアイデンティティを確保する方法であれば誰にでもでき、勝ち組も負け組も生まない。まさしくユニバーサルに保証された「自分らしさ」であった。

▶良い意味で「身の丈の肯定」というか、平成的価値観がこういうところに文化として現れるんだなーとおもった。



・谷口真美「ダイバシティ(多様性)・マネジメント」
①抵抗 違いを拒否する <抵抗的>
②同化 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
③分離 違いを認める <適応的>
④統合 違いをいかす・競争優位性につなげる <戦略的>

ダイバシティ・マネジメント―多様性をいかす組織

ダイバシティ・マネジメント―多様性をいかす組織


▶これからこういうことが重要になってくる気がしている。「違いを認める」のはほんとうにむずかしいことで、かなりのコミュニケーションと労力が必要になるけど、それでもイノベーション多様性のカオスの中からしか生まれない、というのはいろんな前例が証明している。





田舎と若者に興味がある人は、一度読む価値は十分にあります。





Perfume - Spending all my time [ hide@BSB Remix ]
かっこいいいいいいいい